
作品について
「檸檬」は梶井基次郎の短編小説で、結核を患った作家自身の人生を反映した自伝的作品だ。主人公は貧困と病に苦しんでいるが、果物屋でレモンを一つ買い、それを書店に置いてくるというシンプルな話だ。触覚、嗅覚、視覚などの感覚的な表現に特に力を入れた作品で、暗い雰囲気の中にも、生への強い意志が感じられる物語だ。
作品を選んだ理由
この小説は感覚表現が重要だ。感覚表現こそが翻訳で最も損失が大きくなりやすい部分だろうから、比較分析として適していると考えた。そして、英語で先に読んでから、原文を読んだので、翻訳版を読みながら自分が見落としていた部分は何かを探したくなった。
分析・考察
1) 表現の深さの違い

まず、筆者が果物屋に並んでいる果物を表現する部分を見てみよう。文章は「何か華やかな美しい音楽の快速調の流れ」で始まる。ここで筆者は果物の姿を音楽に変えて表現している。その後、「見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて」という。音楽が流れていたが、鬼面を見て固まってしまう。最後に、「あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに」と、音楽が色彩・ヴォリウムという物質になる。原文ではこのように、果物が音楽に、音楽が視線に、視線が物質になる、三つの変化がある。
しかし、英訳ではこの三つの変化が「like a bright allegro that had seen Medusa’s face and turned to stone」と、とても単純に翻訳されている。文章が短くなったせいで、原文の表現の深さがなくなったように感じる。そして、原文では「ゴルゴンの鬼面」という表現を使うが、英訳ではこれを「Medusa’s face」と翻訳する。Medusaは3人のゴルゴン姉妹の中で末っ子の名前だ。ゴルゴンという名前より、Medusaの方が西洋の読者にはわかりやすいから、翻訳者はこの選択をしたのだろう。
2) オノマトペの使い方

次に、筆者が書店で本を積んで塔を作り、その頂上にレモンを置いた直後は、小説全体で一番重要な瞬間だ。原文ではこの場面を「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」と表現する。ここには二つのオノマトペが使われている。一つ目は「ガチャガチャ」だ。このオノマトペは色々な音が混ざり、騒がしい雰囲気を意味する。ここでは、さまざまな本が片付いていない姿を騒音として表現したのだ。二つ目は「カーン」だ。これはたいてい金属のきれいで高い音だ。例えば、鐘の音みたいに、きれいで冷たい音だ。小説では「カーンと冴えかえっていた」と表現し、レモンの黄色が音のように鮮明に響いていることを表現している。
しかし、英訳ではこの部分を「silently and serenely, the lemon’s clear hue sucked all the clamorous colors into its spindle shape」と翻訳する。「カーン」に当たる翻訳が完全ない。「clear hue」は視覚的な情報で、音のイメージはない。「ガチャガチャ」は「clamorous」と翻訳され、その騒がしいイメージがある程度残っている。だが、「カーン」がなくなったことで、騒音がきれいな音に変わる部分が消えてしまった。
3) 単語のニュアンスの違い

最後に、小説の最後の文章を見てみよう。原文は、「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下がって行った」だ。ここでは「奇体な趣き」という表現が使われている。まず、「奇体」は「奇妙な、変な」の意味を持っている。そして「趣き」は「独特の風情、味わい」を意味する。だから「奇体な趣き」は奇妙だが、そのものなりの味があるというものだ。単純に変とか、単純に美しいものではなく、変だがその中に奇妙な魅力があるという両面的な表現だ。しかし、英訳ではこれを「I walked on down the streets of Kyogoku, festooned with their grotesquely colored motion-picture posters」と翻訳している。「grotesquely」は原文より否定的なイメージに偏っていると思う。そのせいで、原文の「それならではの魅力」に当たる部分が消えてしまったのではないか。
これが大事な理由は、この部分が小説の最後の文だからだ。筆者は書店の中に「レモン爆弾」を置き、書店を出て通りを歩く。その通りには看板画あり、それが独特な雰囲気を作る。つまり、最後の場面は暗くも明るくもない状態で終わる。しかし、「grotesquely」を使うと、その両面性が消えてしまい、小説の終わりが否定的に変わってしまうと思う。
結論
まとめると、英語の翻訳はたいてい原文の意味をよく伝えていると思うが、書店にレモンを置くクライマックスや最後の文章など、とても大切な部分の翻訳が原文の意味を全部は伝えていないということがわかった。特に、翻訳版の小説の終わりは少し残念に感じてしまった。この比較分析を通して、翻訳だけではわからない原文の魅力があると言うことを感じた。そして、翻訳が伝えられなかったことを残念だと思うのは、同時に原文がどれほど精密に書かれたのかを証明することにもなると思う。言語学習の魅力の一つは、微妙なニュアンスや単語の選択一つ一つが文章全体の意味や雰囲気に与える影響に気づけるようになることだと思う。翻訳とは、原書の魅力を世界中の様々な読者に完全に味わせるためのものだと考える。それで、言語学習を通してその微妙なニュアンスや単語の意味の違いにより敏感に反応できるように勉強すべきだと思う。