違う言語の中に違う概念があるのは議論の余地のない現実である。例えば、違う言語で違う指示代名詞があるし、最も一般的に使用される「自分」を指す「I」を例としても、日本語には「わたし」、「うち」、「おれ」、「ぼく」、「わし」など色々な言葉がある。そして日本語と同じ、中国語にも「自分」を指す色々な言葉がある。例えば、「我」、「咱」、「本人」、「余」、「吾」などがそれに当たる。では、ある言語にない概念を翻訳する際に、どうしたらその概念の意味をできる限り伝えられるだろうか。
違う言語の中に違う概念があるのは議論の余地のない現実である。例えば、違う言語で違う指示代名詞があるし、最も一般的に使用される「自分」を指す「I」を例としても、日本語には「わたし」、「うち」、「おれ」、「ぼく」、「わし」など色々な言葉がある。そして日本語と同じ、中国語にも「自分」を指す色々な言葉がある。例えば、「我」、「咱」、「本人」、「余」、「吾」などがそれに当たる。では、ある言語にない概念を翻訳する際に、どうしたらその概念の意味をできる限り伝えられるだろうか。
わたしは翻訳家として活動する余雷(ユ·レイ)先生が翻訳した夏目漱石の『吾輩は猫である』の中国語翻訳本を読んだことがある。余雷先生はその翻訳本の序文で「吾輩」を何と翻訳するといいのかにずいぶん悩んだと書いた。いったいどのような微妙な語感は余雷先生をそんなに悩まされるのか。私自身の調査をもとに、余雷先生と主に違う翻訳者を訳した「吾輩」について異なる翻訳の優と劣を研究したい。この目標を達成するため、私は今流行する四つの翻訳版の「吾輩」を比べて、彼らの意味の違いとテキスト中の語感の違いを考察する。
まず、文学界で一番流行する翻訳版は「我」である。この自称代名詞は英語の「I」と日本語の「私」と同じ意味がある:隠喩のない単なる自称代名詞である。そして「吾輩」を「我」に訳すのはもちろん「自分」の意味が伝えるが、余雷先生が書いた序文から見ると、「我」は「吾輩」のニュアンスが伝えられない。 彼はこう書いた:
(「吾輩」という人称代名词は)「私」のことであるが、日本語の「私」とは異なる。 元々の「吾輩」という言葉は、古い時から新しい天皇の前の大臣たちの謙譲語である。おごり高ぶらず、卑屈にならず、しかし謙譲の中にも自尊心がある。昔の中国の宦官が使っていた「咱家(zán jiā)」に似ている。
このおかげで、余雷先生は彼の翻訳で「吾輩」を「咱家」と翻訳した。でも「咱家」は本当に余雷先生の考え通りにそのニュアンスを捕らえるか。ウェブで調べると、「咱家」が表示してる語感についての説明は:
「咱家」(zá jiā)
-
- 初期の白話ではより口語的な用語である。謙虚の中には謙虚ではない感じもある。中国の説話の「在下」(「小生」、「拙者」と大体同じ意味がある)、孫悟空の人称代名词の「俺老孙」(「俺さま」)、そして自満な感じを示す「咱」と「老敝」(「わし」)なども似ている。
「咱家」が多くのテレビドラマには宦官が使ってる人称代名词だから、多くの人は「咱家」が宦官だけの人称代名词だと信じてるが、実際にはそうではない。
- 初期の白話ではより口語的な用語である。謙虚の中には謙虚ではない感じもある。中国の説話の「在下」(「小生」、「拙者」と大体同じ意味がある)、孫悟空の人称代名词の「俺老孙」(「俺さま」)、そして自満な感じを示す「咱」と「老敝」(「わし」)なども似ている。
同じように、ネットのGoo辞書によって「吾輩」定義は:
「吾輩」
[代]一人称の人代名詞。男性が用いる。
1 おれさま。わし。余。尊大の気持ちを含めていう。「―にまかせておけ」
こうなると、「吾輩」には自尊心という意味が含まれることがわかる。さらに、この小説自身の内容を組み合わせると、猫さんは確かに誇りを持っている。だから、キャラクターの性格と組み合わせて見ると、「吾輩」を誇りと自尊心の表現がある「咱家」に翻訳することは確かに正しいのである。
では、なぜ「咱家」という翻訳は主流になっていなのか。この質問のために、私はランダムに中国語の母語者に「咱家」の印象について尋ねた。皆は、「咱家」という人称代名詞は口語的すぎて、時代遅れで、方言っぽいというの問題があると思う。これは先に述べたように主観的な観点だけではなく、「咱家」の定義にも書かれている:
1·「初期の白話ではより口語的な用語である。」
2·「多くのテレビドラマには宦官が使ってる人称代名词だ」、「多くの人は「咱家」が宦官だけの人称代名词だと信じてる。」
だから、視聴者の好みという観点から考えると、「吾輩」を「咱家」に翻訳するのはまだ議論の余地がある。
中国語の翻訳版はほかの翻訳もある。しかし多かれ少なかれ「吾輩」のニュアンスがよく通らない。例えば、翻訳家の徐建雄(ジョ·ケンション)先生が「吾輩」を「在下」(「小生」、「拙者」)と「本猫」(「この猫」)と訳した。でも辞書の定義を見ると、前者は少し謙虚すぎて自尊心の表現を伝えない、後者はどちらの感じも持っていないことがわかる:
「在下」(zài xià)
-
- 自分が下賎な地位にいると称する。後は人称代名词の謙譲語と使うのは多い。
「本人」(běn rén)
1. 自分を称する用語
2. 当事人、この人
したがって、「吾輩」を「本猫」と「在下」に翻訳するのはやはり最良の選択ではない。
そして新世代の翻訳家、章蓓蕾(チョウ·ベイレイ)先生が訳したバージョンが使う「爷」もよくふさわしくない。「爷」という中国語の意味は
「爷」(yé)
…
3. 目上の人と年上の男の敬称
4. 昔の時官僚とお金持ちの呼び方
5. 仏と神の呼び方
である。だから「爷」を人称代名词にするのはむしろ自慢気だけな感じを持ち、謙虚な感じが全然なくて、「吾輩」の元の意味とは異なる。
結論として、今にある色々な翻訳はそれぞれ長所と短所があり、賛成する人と非難する人もいる。 翻訳は、元のテキストの意味だけを考えて、「このままほかの言語にコピーする」ことではない。聴衆の文化を考慮することも一番大事である。色々な翻訳の定義と「吾輩」自身の定義を比べた後、「吾輩」のニュアンスを完璧的に伝える「一番いい翻訳」が多分存在しないと思う。そして「吾輩」のニュアンスは、キャラクターについて描写と小説のプロットで明らかにすることができるだろう。したがって「吾輩」を「我」に翻訳するのは最適な選択かもしれない。
引用
日本国語大辞典 精選版. “我輩·吾輩(わがはい)とは.” コトバンク, https://kotobank.jp/word/我輩·吾輩-2093922.
“我が輩/吾が輩(わがはい)の意味 – Goo国語辞書.” Goo辞書, Goo辞書, 16 Aug. 2019, https://dictionary.goo.ne.jp/jn/237693/meaning/m1u/吾輩/.
“「咱家」.” 百度百科, https://baike.baidu.com/item/咱家/7511301.
“「吾辈」の解釈:汉典.” 漢典, https://www.zdic.net/hans/吾辈.
“ 「在下」の解釈:汉典.” 漢典, https://www.zdic.net/hans/在下.
“ 「本人」の解釈:汉典.” 漢典, https://www.zdic.net/hans/本人.
“「爷」の解釈:汉典.” 漢典, https://www.zdic.net/hans/爷.
于.雷.《我是猫》. 夏目漱石. 訳林出版社. 1994. Print.
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