Day: December 17, 2020

いい翻訳ができるように

レイ・レン 本学期日本語四年生の皆さんと一緒に「さめざめと」の翻訳をした。英語も日本語もできる私にとって翻訳は一見難しくないが、実は考えなければならないということは少ないというわけではなかった。 まず、ただ「さめざめと」の主旨を理解することが翻訳には足りない。聴衆に原作をそのまま見せることは大切なので、翻訳に曖昧な考え方をしてはいけないだろう。だから、ビデオに出た台詞、メール、レシピなど、全ての日本語情報を収集して理解することは基本中の基本だと思う。 次に、集めた日本語情報を理解することは簡単ではなかった。文字にははっきり言えないニュアンスがあったり、台詞には鮮やかな感情が含まれていたりした。例えば、理系の論文を読む時、「黒色」は黒い色と理解さればいいが、文学の「黒色」は暗い気持ちも表せるので、文字通り読まれたら作品が完全に理解されなくなるだろう。例えば、私は村上春樹の「夜中の汽笛について」を読んで、確かに少年は少女を愛していると思ったが、高橋一生さんの泣きそうな声で少年の愛を朗読した時、少年の深刻な感情をより一層感じた。それ故、翻訳する為、一目瞭然な情報が分かるだけでなく、日本語に隠れている意味や感情にも気がつくことが不可欠だと思う。 しかし、日本語が分かっても、完璧な英翻訳ができるわけではない。「愛している」は日本語で「月が綺麗ですね」という言い方もある。唐突に愛を伝えないで、相手に自分の感情を暗示することは婉曲で美しいと思う。英語話者のため「月が綺麗ですね」を「I love you」に訳したら日本語の婉曲が失せてしまう。但し「how beautiful is the moon」と直訳したら、日本文化が詳しくない英語話者としてより分かりにくいだろう。そのため、美感を妥協せざるを得ない。同じく、私たちは「さめざめと」を英語に「sorrowfully」と翻訳して、意味が合っているが、「さめざめと」の静かな悲しさが失せてしまった。とっても残念だと思うが、文の長さと分かりやすさから考えると、「sorrowfully」は選べる範囲の中で一番いい選択肢ではないだろうか。 だから、いい翻訳ができるように、日本語原作をじくっり研究して理解することが必要だ。そして、日本語原作にぴったり合う英翻訳を無理矢理に求めず、聴衆のために翻訳を適切に調整して、完璧な翻訳を目指すより目的が果たせる翻訳をすることが大切なのではないかと思う。

翻訳する時、難しいこと、面白いこと、大切なこと

クイン・ボケリー 今学期、様々な面白くて難しいことを習った。日本語を翻訳するのは大変だ。特に「さめざめと」の翻訳プロジェクトでは、方言や意味合いが翻訳しにくかった。例えば、どのように関西弁を翻訳するか。標準英語か英語の方言にしてみたらどうか。さらに、「じいちゃん」を翻訳する時、「Gramps」か「Grandpa」のどちらを使うか。「あーいたい」のような掛け言葉は「(I) want to meet _____」か「it hurts」のどちらの方がいいか。選ぶ時、どちらの翻訳がキャラクターの性格、感じ、考えを最もよく表すということを決めるのは大変だ。 それに、日本語だけではなくて、文化も翻訳すべき場合もある。映画やビデオの翻訳をする時、言語より文化の翻訳のほうが難しいのは、現れている文化を言葉で伝えなければならないからだろう。暗黙の文化的なことや伝統を説明するために、長い文を書く必要があるが、ビデオではそれを表すと逆に場違いになることもある。一番いい方法がないように思う。さらに、聴衆によって、どのようにその文化を言葉で伝える質問を答えるかも違うような気がする。 そして、翻訳の時、聴衆は要因かもしれない。このクラスを取るまで、聴衆についてあまり考えたことがなかった。日本語を勉強し始めた時、自分の作文やプロジェクトの聴衆はたいてい先生や日本語を勉強している学生なので、自分と比べて、聴衆の方が日本語を知っているか同じくらい知っていることが当たり前だった。でも、聴衆の大切さについて学んで、それに驚いた。 面白かったと思う。聴衆について考えることで、翻訳は内容を翻訳するだけではなくて、人々を繋ぐことであること、つまり、翻訳は社会的なコミュニケーションの方法の一つであることに気がついた。翻訳は自分と原文だけのコミュニケーションのプロセスだというわけではない。むしろ、翻訳は自分が原文を通して無数の人々と通じるプロセスなのではないだろうか。翻訳する人にとって、自分ではなくて、「原文の一番伝えたいことは何か」という点を考えることが最も重要だと思う。言い換えれば、聴衆に話を分かってもらうために、翻訳の時、何か肝心か、何か肝心じゃないか決めなければならない。それは翻訳の難しくて、面白くて、一番大切なことだと思う。