Month: December 2020

「さめざめと」の翻訳の面白さ

「さめざめと」の翻訳の面白さ ビーラ歩実  同志社女子大学の学生が作った「さめざめと」という映画を翻訳するのはとても複雑で、興味深い経験だった。私は翻訳はもちろん言葉の意味を訳すことだが、その翻訳の自然さも大事で、文化的なことも考えなくてはいけないということが学んだ。グループと一緒に翻訳するとき、様々な意見を聞く場合は難しいが、大変役立つという経験もした。また、「さめざめと」の翻訳する経験のおかげで、言語と性格の関係について考えさせられたことも多くある。例として、発見をしたことの一つは方言の影響、つまり、どのように方言や独特な俗語が人物の性格や気持ちを伝えるかということだ。  最初に、「さめざめと」を字幕なしで観た時、本当に感動したが、たまに理解できなかったところもあった。翻訳のかていが進むにつれて、方言や単語がもっと理解できるようになって、映画の話や人物も分かるようになった。特に楽しいと思ったことは主人公のゆかりが言ったことを全部、ゆかりの性格によくあうはずの英語を考えることだった。ゆかりの強さや真面目さ、いつも深く考えているような性格を英語で表すのも大切なのではないだろうかと思った。また、前に書いた通り、「さめざめと」を訳すと、「本当に方言の使い方で性格を伝えることができる」と思うようになった。ペアかグループで翻訳するたびに、方言や俗語について話した。例えば、どの単語が「おじさんっぽい」話し方か、どの英語の俗語でゆかりの若い話し方を伝えればいいか、など。 例えば、ゆかりが家族とテレビ電話での会話が終わった時に、「めんどくさー」と言って、翻訳で英語の若者っぽい話し方の「Ugh.」を使うことにした。方言のような文化的なことは直接な意味ほど大事ではないかと考え始めた。全体的に、「さめざめと」を日本語から英語まで訳すプロジェクトを通して、翻訳を新しい視点から見えるようになって来たと思う。もしも、このようなプロジェクトをする機会があったら、グループと一緒に翻訳した方が良くて、文化的なことを考えると良くなると思う。また、もちろん、できるだけプロジェクトを楽しんでください!

いい翻訳ができるように

レイ・レン 本学期日本語四年生の皆さんと一緒に「さめざめと」の翻訳をした。英語も日本語もできる私にとって翻訳は一見難しくないが、実は考えなければならないということは少ないというわけではなかった。 まず、ただ「さめざめと」の主旨を理解することが翻訳には足りない。聴衆に原作をそのまま見せることは大切なので、翻訳に曖昧な考え方をしてはいけないだろう。だから、ビデオに出た台詞、メール、レシピなど、全ての日本語情報を収集して理解することは基本中の基本だと思う。 次に、集めた日本語情報を理解することは簡単ではなかった。文字にははっきり言えないニュアンスがあったり、台詞には鮮やかな感情が含まれていたりした。例えば、理系の論文を読む時、「黒色」は黒い色と理解さればいいが、文学の「黒色」は暗い気持ちも表せるので、文字通り読まれたら作品が完全に理解されなくなるだろう。例えば、私は村上春樹の「夜中の汽笛について」を読んで、確かに少年は少女を愛していると思ったが、高橋一生さんの泣きそうな声で少年の愛を朗読した時、少年の深刻な感情をより一層感じた。それ故、翻訳する為、一目瞭然な情報が分かるだけでなく、日本語に隠れている意味や感情にも気がつくことが不可欠だと思う。 しかし、日本語が分かっても、完璧な英翻訳ができるわけではない。「愛している」は日本語で「月が綺麗ですね」という言い方もある。唐突に愛を伝えないで、相手に自分の感情を暗示することは婉曲で美しいと思う。英語話者のため「月が綺麗ですね」を「I love you」に訳したら日本語の婉曲が失せてしまう。但し「how beautiful is the moon」と直訳したら、日本文化が詳しくない英語話者としてより分かりにくいだろう。そのため、美感を妥協せざるを得ない。同じく、私たちは「さめざめと」を英語に「sorrowfully」と翻訳して、意味が合っているが、「さめざめと」の静かな悲しさが失せてしまった。とっても残念だと思うが、文の長さと分かりやすさから考えると、「sorrowfully」は選べる範囲の中で一番いい選択肢ではないだろうか。 だから、いい翻訳ができるように、日本語原作をじくっり研究して理解することが必要だ。そして、日本語原作にぴったり合う英翻訳を無理矢理に求めず、聴衆のために翻訳を適切に調整して、完璧な翻訳を目指すより目的が果たせる翻訳をすることが大切なのではないかと思う。

翻訳する時、難しいこと、面白いこと、大切なこと

クイン・ボケリー 今学期、様々な面白くて難しいことを習った。日本語を翻訳するのは大変だ。特に「さめざめと」の翻訳プロジェクトでは、方言や意味合いが翻訳しにくかった。例えば、どのように関西弁を翻訳するか。標準英語か英語の方言にしてみたらどうか。さらに、「じいちゃん」を翻訳する時、「Gramps」か「Grandpa」のどちらを使うか。「あーいたい」のような掛け言葉は「(I) want to meet _____」か「it hurts」のどちらの方がいいか。選ぶ時、どちらの翻訳がキャラクターの性格、感じ、考えを最もよく表すということを決めるのは大変だ。 それに、日本語だけではなくて、文化も翻訳すべき場合もある。映画やビデオの翻訳をする時、言語より文化の翻訳のほうが難しいのは、現れている文化を言葉で伝えなければならないからだろう。暗黙の文化的なことや伝統を説明するために、長い文を書く必要があるが、ビデオではそれを表すと逆に場違いになることもある。一番いい方法がないように思う。さらに、聴衆によって、どのようにその文化を言葉で伝える質問を答えるかも違うような気がする。 そして、翻訳の時、聴衆は要因かもしれない。このクラスを取るまで、聴衆についてあまり考えたことがなかった。日本語を勉強し始めた時、自分の作文やプロジェクトの聴衆はたいてい先生や日本語を勉強している学生なので、自分と比べて、聴衆の方が日本語を知っているか同じくらい知っていることが当たり前だった。でも、聴衆の大切さについて学んで、それに驚いた。 面白かったと思う。聴衆について考えることで、翻訳は内容を翻訳するだけではなくて、人々を繋ぐことであること、つまり、翻訳は社会的なコミュニケーションの方法の一つであることに気がついた。翻訳は自分と原文だけのコミュニケーションのプロセスだというわけではない。むしろ、翻訳は自分が原文を通して無数の人々と通じるプロセスなのではないだろうか。翻訳する人にとって、自分ではなくて、「原文の一番伝えたいことは何か」という点を考えることが最も重要だと思う。言い換えれば、聴衆に話を分かってもらうために、翻訳の時、何か肝心か、何か肝心じゃないか決めなければならない。それは翻訳の難しくて、面白くて、一番大切なことだと思う。

翻訳の芸術

イエナ・リ 今学期のプロジェクトのおかげて、翻訳についてなことをたくさん学んで、考えた。その中で一番興味があるのは文化に関す ることだ。違う言語を話している人の考え方や文化も違っているから、翻訳する時、言葉を翻訳するだけでなく、その言語が含めている文化や考え方も翻訳するのが必要だと思う。その上、翻訳する時に聴衆は誰だ、そして聴衆の年齢や仕事や文化背景などを考えなければならない。これは翻訳の難しさの一つだ。他の難しいことは、ある言語で普通に表していることは、ほかの言語で簡単に表せない時があるということで、その場合、選ぶ言葉や言い方をよく考えなければいけない。英語で言い方がない日本語(例えば、パン)の翻訳はとても大変で、作者を伝えたいことが翻訳できないこともある。 更に、翻訳する時、正しい方や言葉を選ばないと、人々に色々な違う意味を伝えて、その違う意味が人々の日常生活に偏見や悪い影響を与える可能性もある。だから、翻訳する時に、コンテキストと本当の意味をよく考えるのが大切だと思う。近代、コンピューターのことは発達しているので、AIの翻訳も流行っている。AIの翻訳は便利で珍しい言語も知っているが、たいてい正しくない。一方、人の翻訳は時間や精神かかるが、感情も入れるし、コンテキストや文化も考えるし、AIより、信用できると思う。だから、翻訳する時、できれば、自分でするのが大切で、AIの手伝いを使わなければならない場合に、自分でチェックして、正しくない所を見つけるのが必要だ。 言語は芸術だ。翻訳も芸術だ。それらは私今の考えだ。 プロジェクトの以外、日本の生徒たちにも大変勉強になった。同志社大学のみんなと一緒に話してよかったと思った。最初はとても怖くて、緊張すぎて、日本語が全然できないこともあった。しかし、みんなはとてもやさしいし、私も自分の考えを言いたいから、最後には もっと日本語で意見を言うのが上手になったと思う。自分の日本語に自信を持って、自分の考えをシェアするのが大切だ。  

翻訳というのはどういうふうにする?

翻訳というのはどういうふうにする? ケリー・ウォーカー 今学期、毎週授業で翻訳についてよく話して、色々な面白いことを学んだ。翻訳について学んで考えさせられたことや翻訳する時に言語の違いに気づいたことなど、翻訳する上で、とても役に立った。 特に、翻訳について学んだことと考えさせられたことは、文だけではなく、翻訳の形と読者についても考えなければならないことだ。翻訳はどんな形にするか、誰のために書くか、最初から分かると翻訳しやすくなると思う。私たちはユーチューブビデオに字幕をつける目的があったので、字幕の長さや読むことの難しさについて考えながら、翻訳をつけた。そして、英語の母語話者だけではなく、英語が分かる人のために字幕をつけたかったから、翻訳の分かりやすさにも気をつけた。この二つのことは、私たちの翻訳の選び方に影響を与えた。例えば、日本語の文にどちらもとてもいい英語の翻訳が二つあって、選べなかったら、「あっ、これを字幕にしたら、長すぎるかもしれない」、「これの方がみんなにとって分かりやすいと思う」などと考えた、その結果、翻訳を選ぶのは簡単になった。 そしてクラスメートと先生の話のおかげで、翻訳の方法だけではなく、翻訳の正体についても考えさせられた。この授業の前に、翻訳は時々大変だけど、いつもだいたいできることだと思っていた。しかし、自分で翻訳したり、他にも日本語版と英語に翻訳されたものを両方読んだりして、やっぱり翻訳できないことは多いことに気づいた。それは、少し残念なことだと思ったけど、必ずしも翻訳をするのは無理だということではない。翻訳というのは、他の言語に完璧なコピーをすることではなく、むしろ他の言語に新たな別訳を作ることだろう。だから、完全な訳を探すより、目的や聴衆にあっている訳を書いてみることも大切ではないか。そうしたら、作品を味わえる人は多くなって、翻訳の大事な目的を果たすのではないだろうか。

翻訳の素晴らしさ

セラ・デゥシャーム 日本語を勉強し始める前から翻訳された本を読んだり、英訳された字幕が付いた映画などを見たりしたけど、実際に翻訳しようとする前に、翻訳のことをあまり考えたことはなかった。初めて日本語を英語に翻訳してみたのは、日本語を勉強し始めたから2~3年後だった。まだ言語のことを詳しく知らなくて、翻訳は誰にでもできることだと思っていた。それでも、翻訳しようとして、誰にでもできることだと思い続けて、翻訳の深い面白さ・大切さに触れることもなく英訳されたメディアを読んだり観たりし続けて、翻訳をあまり詳しく考えなかった。 たまには日本語の面白い英訳に出くわすこともあったが、普段はそんなに深く考えなかった。しかし、この授業に入って、初めて翻訳のことを真面目に考えさせられた。実際に日本語を英訳する機会は最初はずいぶん楽しそうだったが、実際にやってみると、翻訳の複雑さ、大切さ、そして素晴らしさがわかるようになった。 この授業の前に、翻訳は数人の協力でできあがることだと思っていたが、グループで翻訳を仕上げるのは予想以上に難しいということを実際に翻訳を体験してからわかるようになった。はじめに二人で翻訳をつけるのはとても楽しかったが、その後4人やクラス全員と一緒に翻訳を編集すると、翻訳する人にはそれぞれの「正しい翻訳」があるということがわかって、その様々な翻訳を一つにする難しさを体験して、本物の翻訳家を本当に尊敬した。「正しい」翻訳が複数あるなら、翻訳はいつまでも終わらないことなのではないか、と思った。だから、翻訳は「生きている」と感じて、私は本当に翻訳が好きになった。 私はずっと前から英訳されたものを当たり前のように読んだり観たりしていたから、そのようなものを翻訳してくれた人に感謝できるようになった。翻訳はある言語を話せない人のためにいろいろな素晴らしい作品が楽しめるように世界を回り、人々の役に立てる、素晴らしいことだということにも気づいた。クラスで日本語の短編映画を翻訳して字幕つける、そんなことでも素晴らしいことだと思う。授業以外にも、聞くといつも感動するがあまり知られていない日本の音楽を、日本語がわからない友達がその歌の感じがわかるようになるために歌詞を最近趣味として翻訳し始めた。一人でやることで全然完璧ではいないが、誰かがその翻訳でその歌がわかって好きになるなら、翻訳をした者として嬉しいことだ。それは翻訳の何よりの素晴らしさだと思う。

翻訳は一人仕事では無い

オーヴァートン  栄花 今学期のビデオを翻訳するプロジェクトを通して翻訳の難しさに気づいた。普通何かを書くとしたら、自分の意見を考え、自分で書けば良いことだ。翻訳の元は、他の人の作品で、翻訳者はそのメッセージを伝える役割に過ぎない。自分が翻訳に夢中になりすぎると、作者の言っていることがなくなってしまう場合もある。作者だけではなく、一緒に誰かと翻訳しているならば、その人の翻訳やり方も考え、取り入れなくてはいけないだろう。私は、自分の最初につけた翻訳は個人的なので、他の人の翻訳と合体させるのはなかなか難しいことだった。 ビデオの翻訳していた時、板野 ゆいこさんに一つの言葉には二つの意味をもって書かれていることを教えてくれた。自分たちだけで翻訳をするとしたら、大事なことを見逃していただろう。自分が読んで、何を伝えたいかの問題ではなく、作者の伝えたいことを常に考え、それを英語に翻訳するのが難しかった。でも、これも一番面白かったことでもある。日本語と英語には当然、違う言葉には違う意味もある。日本語の「痛い」は、英語の「ouch」はとても違う。それは感情的に痛いか、体が痛いかの意味もある。ビデオの中で、その二つの意味を表現するのが難しくて、その言葉の英語版を探すのも二つの言語がどのように違うかを考えさせられて面白かった。 私は個人的に他の人と翻訳するのが一番難しかった。日本語を普通に母と喋っていて、その小さなニュアンスがわかって、英語にどのように翻訳すれば良いかをわかっていたと思っていた。でも、本当に翻訳してみると、英語に変えて、意味は一番似ている言葉を使っても、自然には聞こえない場合が多くあった。日本語の言葉の独特な感情を表すには、英語で普通ではない言葉遣いをしらなければいけないと思った。でも、それは、読者の気をそらすので、伝えたいことを分かりづらくなることもあった。そのバランスを見つけるのが難しいということを、一番学んだ。 翻訳は難しくて、他の人のための書く物でも、それは最終的にもっとも完璧で、伝えたいことを伝える翻訳になるのだ。他の人と翻訳をするのに働くのは特別で、誰でも経験をしたほうがいいと思う。難しくても他の人と書くのを通して、自分の書き方もいい影響を受けることもある。新しい経験に怖がらず、挑戦してみると、良い翻訳を作って他の人をもっと意識する視点から書き、考え、感じ始められるだろう。将来ことクラスをとるか、このプロジェクトをやる生徒たちは躊躇せず、自分の意見を発して、一緒に翻訳している人たちや作者と一緒に意見交換をし、自分の書き方を上達するのに集中するべきだと思う。

誰のため翻訳する?

ケイトリン・オン 私は、今学期の翻訳について気づいたこと学んだことをまとめる。 まず、翻訳するとき誰が聴衆かを考えることは大切な点だ。翻訳の目的は、情報を伝えることので、わかりやすさは大切だ。誰のために翻訳し、どうやって翻訳を理解しやすくするかといった点を考えるべきだと思う。だが、聴衆は自分の経験や言語によって、同じ言葉を聞いたり、読んだりしても、違う考えを受けることがあるかもしれない。だから、効果的に翻訳するため、聴衆の経験と文化が分かることはとても大切だろう。そして、伝えたいメッセージをよく理解することは必要だ。特に聴衆はそれぞれのメッセージの受け取り方が違うので、伝えたいことを中心に訳すのが大切だと思う。そのことを考えれば、翻訳の選択はもっと決めやすくなるだろう。 次に、媒体の伝える感情を考えることだ。文学やエッセイの原版を翻訳するのは、単語を直接翻訳するほど簡単ではない。何か媒体を見て、トーンや感情などの人間らしい詳細を集めて体験したとき、初めてメッセージが伝えられる。例えば、朗読の音量、ペーシング、調子といった詳細は聞く体験によって、大きなインパクトがある。だから、翻訳するとき、そのような詳細にも気づくといいかもしれない。 最後に、日本語と英語は全然違う言語だということをいつも考えるべきだろう。授業で「夜中の汽笛について」を読んだとき、原版と英訳を比べると、翻訳した英語版は日本語版の意味に合っていても、本当に原版が伝えた気持ちとはまだ何か違うという気がした。例えば、英語版の主人公は「してみてほしい」という頼み方の表現を使わず、もっと「私」を使ったため、英語版の男の子の方が上目線で女の子に話す印象を与えたと思う。それに対して、日本語版の男の子は相手に平等に話した。ここから、文法の決まりによって、トーン、イメージ、人物の関係などが変えられてしまうこともあることがわかった。だから、そのような翻訳の決まりがどうやって翻訳に反映するかよく考えるべきだと思う。 今学期、翻訳についていろいろ勉強になって、翻訳の難しさが少しわかるようになった。翻訳するとき、誰のために翻訳するか、わかりやすいか、直訳と意味の翻訳とどちらの方がいいかといった点を考えなくていけないと思う。